その頃は名無しのTA11W
 1995年10月から、それまでのTA01Wヘリーハンセンの後を引き継いだTA11W。
 いわゆるアフターマーケットのパーツは何一つ取り付けられていない、カタログモデルとディーラーオプションだけのコーディネートでした。もちろん、「らすかる」などという名前はついておりません。先代のヘリーハンセンに「エクスカリバー」などという法外な名前をつけてしまったため、SOHC8バルブでエクスカリバーなら、DOHC24バルブはどうすりゃいいんだ? などと自問自答し、同じ剣だったらやっぱり「草薙ノ剣」かとも思いながら、SMAPのメンバーと混同されるのもいやだしと却下していたり・・・の話はこの際どうでも良いこと。
 奇しくもこのとき選択したアルミホイールのスズキスポーツ・タイプMだけが、現在のBLUEらすかるで、スタッドレスタイヤ用に残っています。
 10万kmを越えるまで、この形で街へ出かけ、林道に分け入り、エスクードのオーナーズクラブへの参加もせず(だってパソコン通信なんかやっていなかったもの)、誰に知られることもなく走り続けていたのでした。
 この年の12月に長女が生まれ、97年の10月に次女が生まれ、99年の春くらいに、初めてオーナーズクラブというものへの接触を果たします。
 らすかる、という名前は、98年頃につけられたものです。いま見返すと、ヘッドライトベゼルがついていたフロントマスクだけで、なぜ長女が「らすかるー」と指を指したのかは、理解しにくいですね。当の本人なんか、その記憶がないと言っていますから。
 かくして20世紀も残り少ない99年の夏から、このエスクードは何度かの段階を経て、あの姿へと進化していくのです。一人じゃとてもできないことでしたね。左下の写真は、当時「濃い」と言われた茨城組(すごい呼び名だよなあ)の初めての顔合わせの様子です。