石ころを眺めに奈良へ出没(それだけ? それだけです)

奈良大和路は、3時間やそこらで巡っていけるほど甘くはない。
それはわかってるんです。でも、それだけあれば、まあなんとか・・・
 「キトラ古墳群の石室から剥がされた“玄武”が、一般公開ですよ」
 大阪のBlackcat.U−taさんが教えてくれた。
 京都も奈良も、なぜか定番であるはずの修学旅行コースからことごとく外された生い立ちの僕は、知識でしか奈良を知らない。これは!と思い立って表工作と裏工作を駆使して時間を作り、700系のぞみに飛び乗ったのである。
 奈良県明日香村にあるキトラ古墳。その石棺室内壁に描かれている「玄武」の壁画が、修復のために、内壁からはぎ取られ、飛鳥資料館で一般公開される初日のことだ。U−taさんがBMW318−tiで案内してくれた。
 天武天皇の皇子(高市皇子)であるとか、側近の高官であるとかの被葬者諸説があるが、プロレスマニアでバスガイドの毛利郷子さんに言わせると、
「誰が埋まっているかわかったもんじゃない」
「私に言わせれば、大和路は全部お墓なのよ」
の墳墓の一つである。
 飛鳥資料館の「玄武」展は、キトラの壁画だけでなく、国内外で発掘された玄武の時代や地域ごとのデザイン、描き方の変化も見ることが出来て、興味のある者には面白い企画展だった。
 しかしこの資料館、本来なら明日香村のあちこちに点在しているはずの“謎の巨石”が、いきなりほぼ全部見学できるという趣向に、腰砕けに笑わされた。実物を見てみたかったもののひとつに“亀石”があったのだが、こいつが資料館の門をくぐるなり、左手側にのへーっと横たわっている。酒舟石も然りだ。もちろん石舞台古墳も含めて実物を見学してきたが、何も知らずに資料館を訪ねた僕は「そりゃあないだろうっ」と脱力。U−taさんに笑われるのであった。
 キトラ古墳では1983年に、ファイバースコープを使った内部探査が行われ、北壁に描かれた「玄武」が確認された。それから20年近くをかけて、石室の全容が解析されている。
 近所(アバウト)の高松塚古墳に比べると、唐の文化的な影響が少ないと観察され、7世紀末期から8世紀初頭に築かれた古墳であろうと言われている。ここ数十年の調査期間中にカビの影響、化学変化や質的な損傷が進んで、壁画の修復が行われることになった。
 はぎ取られた玄武は、想像以上に小さなものだ。架空の動物でありながら、生物的な特徴が描き出されている。
 壁画を納めたアクリルケースの前後には、きりりとした警備の警官が2名。写真はもちろん撮影禁止。しかたがないので、なぜか我が家に存在する石室内部と玄武、南面の朱雀の現物写真を持ち出してみた。念のため、これは盗撮ではなく、発掘調査時に撮影されたものである。
 柔らかで繊細なタッチに見入るが、資料館で見たこれらの壁画に引けをとらない驚きは、天井に描かれている天体図形だった。大陸から渡ってきた文化であっても、1300年前に地上と宇宙を結びつけ、哲学と宗教の融合の中から生み出された“デザイン”があることに、ちょっとした感銘を受ける。

 駆け足で明日香村をあとに、葛城山系を越えて大阪に戻ると、仲間たちが待っていてくれた。梅田の夜が更けていく中、いつものように世間話に花が咲く。そして彼等はいつも、こんなに遠い距離をものともせずに、各地のツーリングイベントにやってきてくれるのだと、あらためてありがたさを感じた。いずれまた、駆け足をしなくて済むように訪ねてこよう。
 

それにしても、奈良大和路は遺跡の道といえども、寺社仏閣の片鱗も出てこないこのレポートって・・・
 いいんです。僕は毛利郷子さんのファンですから。