SCENES 
We are constantly running at ESCUDO.

 会社に入社した年、すでに昭和は終わり平成が始まっていた。
 職場は東京と郷里を行き来し、そして再び東京の勤務になって、こちらに家を建て10年と少し過ぎる。僕自身は昭和の生まれだけれど、子供の頃は明治生まれのお年寄りたちに歴史そのものを感じさせられた。こと僕の郷里は戦争で手ひどい仕打ちを受けているだけに、その中を生き抜いてきた人々には皆歴史があると思っていた。
 その僕が、まあ僕がそう決めたのではないけれど、平成の終わりを告げるニュースや記事見出しが飛び交う過渡期に、いま暮らしている。おいおい、遂に自分自身が、来年の今頃には三つめの元号を生きるのだぜ。
 職場でいろいろと根回しと手回しが気ぜわしいのは、そういった時代の移り変わる過渡期だからなのかもしれない。ただ、そんな生活パターンにすっかり馴染んでしまって、さほどの違和感もない・・・
 というのは自分に対する偽り。ずっと、このライフサイクルの中に生じている、凝りのような感情から目をそらしていた。


 退勤途上の電車内で、スマートフォンに着信が入る。オークションに出品していた、タイヤが2セットとも落札された連絡だ。アルミホイールに組み付けたままのスタッドレスはほぼ新品、オールテレーンの方も・・・これは走る気はあったのだろうな。いずれ履き替えるつもりで買っていた未使用品だ。
 純正シートに戻し取り外したレカロのコンフォートも、タンクガードも瞬く間に落札者が決まった。まだこの手のパーツに引き合いがあることで驚くわけだが、使ってもらえる先があるならそれでいい。
 残ったのは白地のキャンバストップだ。これについては思うところがありというより恐る恐る、手紙を出した。
 メールではない、封書で。受け取ってくれるならば今度の週末、宮城に伺いたいと書いた。すると即座に電話がかかってきて、こっちに来てくれるという。
 だから恐ろしい・・・ああいや、ありがたい。受け止め方によってはうざったいと誤解を招くほど面倒見がよい彼は、車を丸ごと引き受けられずに申し訳ないとまで言ってくれた。
 もちろん僕もそこまで寄りかかろうとは思っていない。ただ、この春をもって、長年乗り続けてきた車を処分するにあたって、彼には真っ先に伝えなければと決めていた。

 それにしても、彼と連絡を取ったあとに出品したオークション品が、彼と会う以前にすべて売れてしまうという激流のような世の中だ。
 それもこれも、インターネットの普及に対して移動体通信機器がこの10年で飛躍的な進化を遂げたことが要因だろう。腕時計型テレビ通信機という画期的な装備を持っていたウルトラ警備隊に憧れていた僕が、あのビデオシーバーよりも多機能高性能の端末を日常生活で使いこなす時代なのだ。
 その反面、クルマに対する関心事は、世代が若くなるほど薄れていると言われている。ことクロカン四駆というジャンルは90年代前半に爆発的にブームとなり、そして市場は定着したものの、定着のために捨てるものも捨てSUVなどというよくわからないジャンルへ拡散し、今またクロスオーバーなんとかいうワケのわからない領域に飛び込んでいる。
 要はステーションワゴンの洒落たやつへの回帰なのだ。そこには荒れ地をものともしないクロスカントリー性能はコストの上でもじゃまになった。雪道と凍結路をある程度走れれば、四駆としての使命は十分果たす。

 でも、だ。燃料代やら駐車場代やらも含めた維持費は、若い世代には重荷ではある。僕らだってそうだった。それでも四駆で野山に出かける楽しみがあればこそ、やりくりもできた。今はスマホがあれば部屋にいながらにして世界とつながり何でも見聞できる。
 それが仮想現実でも虚構でも、電子化された情報は抵抗なく安価に手に入れられる。それこそ東京や横浜在住だったら、発達した公共交通機関でどこへなりと出かけられるから、次第にマイカーという言葉自体が脳内辞書から削除されていくのは無理もない。
 まさかね、僕自身がそうなっていくとは思わなかったさ。

 そんなことを逡巡しているうちにプレミアムと冠のついた金曜日は明けてしまい、約束の週末がやってきた。
 僕はキャンバストップをたたんだ収納バッグを助手席に載せ、家内に見送られて路地裏から赤いコンバーチブルを走らせる。あと数日。休日の数を数えれば、もう何度もこいつを動かすことはないだろう。


 大桟橋近くのカフェテリアで僕を待っていたのは、友人の娘さんだった。
 クルマに乗り始めて2年目ほどか。単独で遠出の経験値は浅いだろうに、よくぞここまで来てくれたものだ。

 「湾岸線は走り易かったし、ここまで150キロもありませんでした」

 彼女は、父親、つまり僕が手紙を出した友人が急きょ入った仕事で赴任先から帰省できなくなったことを告げ、短く謝罪する。
 この子を僕のエスクードに乗せたのはいつだっただろうか。
もう少し走れば福島県との県境あたりに出かけ、帰り道に高速道路の事故渋滞に遭って、同行していた友人が道案内してくれたことがある。信号ではぐれたときのために、ある程度は地の利がわかるからと彼女を僕ら夫婦の後席によこしたのだった。
 今思えば、まだ小学生だった彼女が道を熟知していたとは考えにくいのだが、動態視力はたいしたもので、何台か先行されても父親のV6エスクードがどちらに曲がっていくかを正確に追尾していた。別れ際に路傍に咲いていた小さな花を摘んでくれたのを思い出した。

 そうか、もう12年も前のことだ。
 よもやあの子が僕と同じコンバーチブルのエスクードに乗って、海岸通りまで走って来るようになるとは。
僕はキャリーバッグに収納した白地の幌を彼女に引き渡した。以前ミーティングのときに一度張ったきり、すぐ冬になったので外してしまいそのままだった。友人に預けるこの幌を僕が使うことは、もう無い。
 92年の春、郷里の広島市で新車のエスクードを買った。赤い車体のコンバーチブルだ。結婚し転勤して98年ごろからこの四駆のコミュニティーにかかわり、沢山の仲間ができた。彼女の父親もその一人だ。
 その年月と郷里時代も合わせた26年、僕はただ1台のエスクードに乗り続けてきた。四角くて背の高い、洒落た佇まいを気に入ってのことだった。だが26年だ。各部の経年劣化が顕著になり、故障も避けられなくなった。
 これを廃車にする決意に1年かかった。以前ほどにカーポートから持ち出す機会もなくなり、まあいいかと手入れも先延ばしになっていたのだ。

 クルマはそんな時、無言で訴える。助手席のドアがどうにも開かなくなり、普段取り付けている黒い幌の樹脂部品が次々と折れていった。
 このままじゃいけない。腹を決めた。だけど・・・

 「父は、哀しい気持ちも寂しい思いも全部もらって来いと言っていました」

 と、彼女はまっすぐに僕を見ながら話す。

 「それから、夏になったらこの幌に張り替えようって。海岸線を走る赤いエスクードは父の憧れなんです。でもほら負けず嫌いだから、真似はしないぜってうちのは紺色。似合うのかな? 白い幌って」

 僕は確かに哀しくて、それでいて嬉しくなった。
 運ばれてきたコーヒーを一気に飲み干し、走りに行こうと持ちかけた。今から出れば津久井浜あたりで海と空の色が頃合いになる。
 彼女は笑顔で快諾してくれた。LINEで家内にこれから迎えに行くと発信して、最後のツーリングを決める。家内はきっと、江奈の地魚屋に3人分の夕食を予約してくれるだろう。


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