「開店当日に、水道工事が終わっていなかった」
「故にcoffeesとfoodsの後ろにbeersがくっついてて、開店日はビールでしのいだ」
 これは伝説です。
 筑波研究学園都市の都心地区に近接していながら、当時はお店の前が畑でした。
 地元の草ラリーチームのたまり場であったとも、四駆のクラブハウス的な店であったとも、青少年の同人誌のミーティング会場であったとも言われていますが(誰が言ってるんだ?)、このお店は喫茶店でした。

 2000年12月23日、「FOOTMARKS」が、17年掲げた看板を下ろしました。

 筑波研究学園都市の都心地区といっても、当時はお店の前に限らず、1983年、科学博以前の筑波なんて、いったいどこが科学技術都市?という、超巨大区画整理の途上の街でした。その過渡期に、フットマークスは生まれました。
 初代のデコ姉、2代目のあすかさんから看板を受け継ぎ、3代目の高野直さんが、暖簾ならぬ看板を護ってくれました。現在のオーナーであり、デコ姉とともにお店を開いたはるちゃんこと飯村春夫さんは、デコ姉が亡くなられたあと、どこで初代に看板を返してあげるかで、いろいろなことを考え続けて来られたようです。
「“同じ思い”でお店をやりたいと言ってくれる人が現れて、ほんとに嬉しいです。だからまだまだみんなとも会えますね」
 お疲れさまでした。
 わがままな一人のお客として、ここに足跡のひとつを残させて下さい。
 それはともかく、フットマークスのお見送りの宴会には一番乗りして、カウンターで珈琲をいただきながら、はるちゃんと互いに“あやしいおじさん、暗い青年”時代のことを少しばかり話しました。
 フットマークスは、カーマニアのモデラー、コレクターのよりどころでもあったらしく、一頃はところ狭しとスポーツカーのスケールモデルが並べられていました。
 一時期、JCJ筑波支部の事務局にもなっていたようですが、最近はヨーロピアンズオールドカークラブの面々が愛用していました。
 古くから通っていたのは、デコ姉やはるちゃんの釣りやキャンプ仲間たち。仲間というよりも家族同然の人々です。デコ姉に子守してもらった赤ちゃんたちが、もう中学生だったりするのですから、当時暗い青年だったはずが、あやしいおぢさんの第2世代になっているのは無理もありませんね。
 このお店は地元の同人・個人の文芸作品(笑)に、けっこう頻繁に登場しておりました。
 最も古い記録は、現在「洛紫亭」を名乗られている赤まんとこと岡野秀明さんの怪しい作品集「ドーラ物語」とそのシリーズに、かなり若かりしころのデコ姉のことなどがつづられています。
 氏が遊びの一連の笑い話を配信していた猫猫通信社刊「ニャンニャンタイムス」と、氏のライバルであった同人「唯」の主宰者・森田和樹さん(秋田県湯沢市)も、折に触れこのお店のことを書いていましたが、今は全て“失われた文明”と化しております。
 それらの遺跡を発掘して回っていた後輩の志田龍介さんは、80年代に書かれたノンジャンルな空想小説で、シリーズ3作にわたってフットマークスを登場させています。これらは全てアマチュアが楽しみだけで創作していたもので、発掘された先代の作品群よりもさらにマイナーで、それを知る読者の方が“失われて”いるようです。
 志田作品には、師匠にあやかった「ドーラ日記」という1ページ楽屋落ちまんがも存在したらしく、デコ姉、はるちゃんはそこにも登場していました。
 その更に次世代にあたるグループの中で、中西良二さんが書いた冒険小説(注:本人談。ただし当時のことです。当時って・・・彼まだ十代)においても、フットマークスが主人公のたまり場として現れます。ここではデコ姉は登場せず、はるちゃんらしき“マスター”が昔不良で今は中年トライアラーという形で、カウンターの中から主人公をやりこめております(たぶん、本人も知らないぞ、これ)。
 デコ姉には公私いろいろとお世話になっていてキリがないのですが、なにしろ珈琲を飲みに行くというより飯を食いに行っていたようなもので、そのボリュームは大盛りを超えたすさまじさがありました。トースト類は、顎が外れるほど口を開けてもかじりきれない厚さのパンに、少しでも傾けたら雪崩のように落ちるであろうツナやタマゴが「これでもか」という勢いで乗せられている迫力。必殺の原価割れメニューですね。
 どこから食えば良いんだと困っていると、デコ姉はにこにこしながら、
「それっくらいまるかじりしなぁ」
などと言われるのでした。
 嵐田雷蔵の娘たちの世代になると、デコ姉は「でこママ」と呼ばれておりました。もちろん、嵐田が「ママ呼ばわり」すると「姉だろぉ」と叱られるのですが、5歳の長女・霰には「でこママ」のイメージは焼きついたらしく、いただいた玩具を「でこママがくれたの」と教えてくれます。最近は、足跡のマークは「はるちゃんのレーシングカー」に移り変わっているようですが(5歳児が「はるちゃん」と言うのも問題だなあ)なじみのお客さんたちには、それぞれこんな想いがあるのだと感じます。歴史の一こま、というほど感傷的にはならないんですが、楽しい場所でありました。
 


  
番外編 エスクミ裏バージョンも開催
 FOOTMARKSが、喫茶店でありながらクルマ好きのたまり場であるということを、人には話していたものの、クルマ好きの集いをやったことがなかったのは不覚でした。
 そこへ、クラブESの宴会帝王こと重田さんから、
「新年会を東京でやったでしょ。忘年会をつくばあたりでやりましょうよ」
 というありがたい話をもちかけられ、幹事をひきうけ設営したのが、店じまい一週間前の2000年12月16日でした。
 いわゆる、エスクードミーティングの裏バージョンです。   
 裏バージョンだけに企画もいきなり、設営もお知らせもいきなり。そんなことで会員が集まれるわけないだろうと自虐の当日夜。一人、またひとりとドアを開けて、9人と嵐田の家内(財布と免許証を自宅に置き忘れたバカな亭主に届け物に来ただけ)、子供たちがそろいました。
 筑波とクルマといえば、のすたるぢ屋の松浦さん。松浦さんというと、実はFOOTMARKSのはるちゃんが所属するEOCCという欧州クラシック車のクラブともイベント協力をしている間柄というので、無理矢理連れてきたら「僕はお酒が飲めなくて、こういう宴会に慣れてないんです」
 いいんです。嵐田なんて超下戸です。ばか騒ぎができればお冷やで盛り上がれます。という宴会となりました。
 つくばーどページの大家である春夏秋冬氏も、ライダー時代に通っていた店だけに「懐かしいなあ」と昔の席を陣取り。初めて来た重田さんも、はるちゃんのBMW限定車に過敏な反応。しかし、ここで、一週間後にとんでもないことになるのをつゆ知らず、にこにこ呑んでいたのは、「ミズナラの森」のサイト管理人・山口有一さん。彼は釣り人であり、同じ釣り人の重田さんと意気投合していましたが、23日の同店宴会では釣りフォーラム関係者との間で盛り上がり、拉致されたとかされなかったとか・・・
 そういえば、はるちゃんの軽自動車耐久レース仲間の黒田さんと、エスクミ常連でつくばーどでもお手伝いしてくれる井河武さんも、会ってみたら知り合いだったという意外な展開があり、FOOTMARKSは「世間を一気に狭くする店」であったことが判明しました。