83年の運行に幕が下りた晩、石岡駅周辺は小雨が上がりつつ、日中よりも暖かな夜を迎えていました。
 鹿島鉄道には、車の免許を持つ以前に何度か乗ったことがありました。祖母の実家が霞ヶ浦のほとりで、最初は祖父母に連れられ、やがて祖父母の同伴者として、車窓から帆曳き船を眺めながらの、小さな旅をしていました。
 桃浦駅のホームを改札とは反対側に抜け出せば、そこはもう霞ヶ浦の波打ち際。古びた小舟が係留されていて、春先には隠れて昼寝をするのにもってこいの場所。しかし祖母に言わせると、広大な霞ヶ浦と、きりっとした筑波山の稜線を一望できる、浜駅近くの景色の方が上だと、教わったものです。
 その記憶自体、四半世紀以上前のもの。かつて航空燃料の輸送で貨物車両が搬入されていった、航空自衛隊百里基地が、茨城空港として民間共用化されようという時代にまでなってしまいました。
 茨城県は、国土交通省に言わせれば、高速道路、国際港湾、空港と、陸海空の社会資本整備をフルプランで実践している、類い希なところだそうですが、モータリゼーション以来、人々の生活基盤の大半は道路と自動車に依存しています。
 だから、鹿島鉄道に対する需要が低迷していったのは、無理からぬことだったのかもしれません。地域の存続運動も、言われているほどには聞こえてこなかったし、赤字路線の立て直しを請け負う民間会社からも「地元の盛り上がりのないところに奮闘するのはむなしいこと」との烙印を押されてしまいました。
 そして3月31日。実際には日付の変わった4月1日。少しだけダイヤを遅延させつつ、玉里駅行きの終電が、見送りの人々をあとに発車していきました。