2014年6月19日未明、母が急逝した。
 青天の霹靂。母の日に食事へ誘って助手席に乗せたのが最後となってしまった。親の死に目に間に合わない親不孝な倅に対して、茶目っ気がセールスポイントの母が残したものは、7月20日の日取りに35日の法要を持ってきたことだった。
 

 「アポロ11号の日だよ?」

 遺影が語りかけてくるなどという話はありえないが、実に見事に倅の趣味にぶつけられた日取りだった。しかし仙台からつくばーど基地へ単純に走っただけでは、20日に50万キロを刻むことができない。
 そう、BLUEらすかるはこの8月にも殿堂入りクラスの大台にたどり着こうとしていたのである。

 「新潟の友達に会ってきなさい」

 もちろん遺影は話したりしない。だが、そうすべき必然として、8月のXデーとなるはずだった「つくばーどin妙高高原」を新盆の準備の都合から中止せざるを得なくなっており、謝罪というほど大げさではないにしても、頭のひとつも下げに行けなくてはならなかったのだ。
 そういうことであれば、50万キロへのスタートラインは日本海の海岸線として、基地への帰還を大台到達のポイントとし、然る後、太平洋へたどり着こうという目論見を立案した。

 7月19日夜、おいたマンさん親子、
looplineさん、ふっじいさんが待ち受けてくれていた。新潟と言えばたれカツ丼、しかも美味くて安くてボリューム満点という店に案内していただき、10年前の新井〜長岡つくばーどの話題で盛り上がる。あのころ、、まだ先代のらすかるは月軌道にたどり着いていなかった。

 北陸道から関越道、北関東道を経由し、基地の手前300メートルで50万キロを迎えた。20日未明のことだ。よくぞ走りぬいたものだ。が、これもまた通過点の一つ。
 ひとまず日中、法要をこなし、日が暮れてから地元のエスクード仲間に会いに行く。コムロさん、新月さんと風花さん、ギガントさんご夫妻、AMGさん親子、とにいさんがやって来てくれた。
 月日が経ち、車を乗り換えながらも(1台だけ乗り換えなし)、全員が今なおエスクードに乗っているところが感慨深い。

 取り留めもない対話で夜会はお開きとなり、BLUEらすかるは夏海海岸をめざす。残念ながら新潟の晴天の日没と異なり、日の出の見られない曇天の21日朝。再び長い道のりへと走り始める。