《今さら何を解説する必要もない 世界が受け入れた一台》

 アドルフ・ヒトラーは、独裁政治家として国際的な悪者扱いの人物だが、自動車というツールの将来性を見いだし、自動車産業への政治的な援助を惜しまなかったという側面を持っている。フォルクスワーゲンは、その一つの成果だと言われる。
 同社の乗用車・タイプ1は、ヒトラーが開発を命じた、大衆車の理想型を目指したものだ。フォルクスワーゲンという言葉は造語であり、volksには「国民」、wagenには「自動車」という語意が込められている。設計を担当した人物、フェルディナンド・ポルシェ博士は、自動車関係企業を転々としているなかを、ヒトラーに拾われた。
 タイプ1は、あまりにも有名な「ビートル」の愛称で、世界的に親しまれている。どこぞのレディが「まるで甲虫のようだわ」と言ったというエピソードが、ビートルの名の由来の定説だが、試作段階で既に、コフキコガネ「Mai Kafer」と呼ばれていたそうだ。
 ヒトラーはある意味、タイプ1を世に送り出した時点で、世界中の人々の心をつかんでいたとも考えられる。人の運命というものは、皮肉なすれ違いを垣間見せる。本来の計画であった理想の大衆車は、第二次世界大戦の勃発を機に、軍事目的のための車へと変更を余儀なくされた。キューベルワーゲンや、水陸両用車シュビムワーゲンの開発につながる。

 戦後、連合軍、米国軍から引き継がれ、英国軍の統制下に置かれたフォルクスワーゲンの製造能力は、再建はされたものの英国軍のジープ修理などが主力であった。英国はフォルクスワーゲンの将来性を評価しなかった。これも皮肉のすれ違いであろう。もしも英国に吸収されていたなら、フォルクスワーゲンの戦後の道は、変わっていたかもしれない。英国占領軍政府はしかし、2万台のフォルクスワーゲン生産を発注し、一般仕様のタイプ1が大規模生産され、規定賠償車として連合軍関係に供給された。
 1948年、周辺各国への輸出が開始され、タイプ1・ビートルは世界的な、そして長寿の道を歩み始める。実は本家・ウォルフスブルグにおける生産期間は、ビートル誕生から30年めの1974年に(それでもかなりの長寿であろう。1200万台弱のビートルが、この町で作られた)で終了しており、ヨーロッパ全体でも1978年に生産終了し、その後はメキシコ生産モデルが逆輸入されている。
 この当時、フォルクスワーゲンは既にゴルフという次なるロングステージモデルを生み出している。

 ところで、1967年式モデルまでを、ファンはヴィンテージと呼ぶのだという。
 バッテリーが12Vに換装され、ヘッドライトが垂直に変更された。ヨーロッパでは67年式までが6V車だったが、日米などの輸出モデルは電装が強化されている。1500cc・スーパービートルと呼ばれたモデルも登場している。この年式はマイナーチェンジの過渡期であり、6V時代の雰囲気を残した最後のモデル故、この年までをヴィンテージと呼ぶらしい。

 1994年、デトロイト・モーターショーに「コンセプト1」と名づけられたケーススタディが発表された。大きな反響をもとに、予定されていなかった市販化も決定した。オリジナルのビートルへの愛着を引き継ぎながら、21世紀にこのクルマを持っていこうとするアピール。ゴルフ4のコンポーネンツを使用した水冷エンジンにFF駆動と、タイプ1とはまったく異なる中身ではあったが、姿形はタイプ1をモチーフにデザインされた、ニュービートルの誕生だ。
 そのディメンションやデザインには拒絶を示した空冷時代のビートルファンも多かったが、1998年に既に世界随一のマーケットとしてビートルを受け入れていた北米で発売され、大ヒットの波は世界中に波及している。3.2リッターのレース用エンジンを公道用にディチューンして積んだ、ニュービートルの超ホットバージョンとして、RSiが、250台という世界限定で生産された。2003年にはカブリオレもラインナップされた。
 今、登場を期待しているのは、フォルクスワーゲンがかつてラインナップしていたデューンバギーとのコンセプトを融合させた、四輪駆動モデルの「デューン」だ。2.3リッターの水冷V5を搭載し、21kg(3200rpm)のトルクを発生させる。コンセプトモデルは、ニュービートルのシルエットを少しも崩すことなく、より甲虫のたくましさを演出している。