|
|
《立花レーシング 2005》 |
立花藤兵衛には、アメリカ人の航空機エンジニアを父に持つ、アメリカ国籍という生い立ちがあった。彼は第二次世界大戦が終結した1945年の生まれで、母親は日本人だ。敵国の娘を伴侶とした父親にも、もちろん母親にも、戦争という痛手は地域社会の風当たりとしてついてまわり、藤兵衛自身にもその苦労は影を落とした。
しかし、父の名付けによる「藤兵衛」という古風な名前は、旅客機を牽引するトーイングトラクタのToe-Barから、「世界を引っ張っていくような男になれ」という願いが込められていた。彼はその名に恥じない生き様を貫き、日本の血を引くアメリカ人という境遇に誇りを抱いた。
父の影響で幼い頃から内燃機関の技術者を志していた藤兵衛は、その努力の賜としてMITをトップクラスの成績で卒業するだけの才覚にも恵まれ、アメリカ航空宇宙局において技術職の道が開けた。アポロ計画の現場に新米技術者として投入され、ニール・アームストロングやエドウィン・オルドリンらとの出会いを果たしている。特にオルドリンは空軍パイロット時代にMITに在籍し、宇宙航法学の博士号を取得した“先輩”として親交を深めたという。
立花はその後、原子力空母ニミッツの立ち上げ要員として米海軍に派遣された。日本を被爆させた核分裂技術を扱うのはいやだと固辞する彼を諭したのは、あのヴェルナー・フォン・ブラウン。NASAの初代局長としての最後の叱咤であったらしい。
「私もNASAを去るが、時代を動かす牽引力を、良くも悪くも引き出すのは人間の歩みなのだ」
1975年に就航した1番艦ニミッツで、タービンポンプの出力調整を任された立花は、その後もアイゼンハワーやカールビンソンの立ち上げに関わるが、レーガン政権のタカ派政策と原子力の軍事利用に嫌気がさし、一切の職権を捨てるに至った。
最後に乗り込んだのは、再び仕事の巡ってきたニミッツであった。艦載機のパイロットたちが、立花の去就を惜しんだ。
「俺たちもいずれ、スペースシャトルのパイロットに転属する。戦争のためじゃない、平和のための宇宙をめざすのさ。トウベィ。そのときにお前に、機体のメンテナンスを任せたかったぜ。俺たちは国家のもとに存在しても、家族や仲間の絆のために生きている。その思いをを持っていってくれ」
彼等は飛行隊や艦番をデザインしたワッペンや認識票を、自らのユニフォームからむしり取って、立花の手に握らせた。そのひとつに、彼等が“陸”で駆けめぐっていたモーターサイクルクラブ・『RIDING CYCLONE』のマークがあった。
|
|
|
|
|
|
彼の母親は横須賀の生まれ育ちであった。
母親は彼が10歳の時に死別しているが、その縁を辿り、1980年代半ばに第二の故郷日本に移住してから母親の旧姓を名乗り、モーターサイクルを気ままに弄ることを目的に、立花モータースを興した。
サターン型ロケットのエンジン開発の頃には小間使いのような仕事を繰り返し、何の因果かヒロシマとナガサキを壊滅させるに至った原子力と同じ核分裂を扱うエンジン屋として大成した自分が、気が付けば三浦半島の付け根の田舎のような都会のような中途半端な街の片隅で、30ccから1500ccというマイクロエンジンをいじりまわしている。
最近のトーイングトラクタは航空機の前輪を背負って動かす。このため前輪と接続するトゥバーが無くなっている。
時代の変遷とは、そういうものだと、藤兵衛自身が苦笑する。
「だが俺はまだいい。会社勤めですり切れていく同世代の団塊たちに比べれば、彼等より早回しで枯れはしたものの、こうして好き勝手な老後を自分の手でつかみ取れている」
立花が未だに成し遂げられずにいることといえば、この10年取り組んでいる鈴鹿8時間耐久オートバイレースに、エントリーし続け、一度も入賞すら出来ていないことであった。
片鱗とはいえ、アポロを月へ送り込み、世界初の量産原子力空母を建造する仕事に携わってきた一流のエンジニアにも、勝手の違いは大きな壁となっていた。
優れたレースマシンを作り出すことはできたが、マシンの性能を引き出すことのできるライダーに巡り会えない。誰も立花のマシンを乗りこなすことができないのだ。結果、妥協点を見出していくしかマシンを走らせる術はなく、バランスを崩していくマシンが勝てる見込みもなかった。完走は果たせるようになったが、それは満足できる結果ではない。
葛藤を繰り返すうちに、2005年シーズンのマシンが仕上がった。これに乗せてみたい若者が、1人いる。職業レーサーではないが、ライディングテクニックにはダイヤの原石のような可能性を感じている。そしてその若者は、少しの間姿を見せなくなり、戻ってきたときに何かが変わっていた。若者がみせる消失感と絶望の視線の奥に、立花自身にも覚えのある怒りと衝動が揺らめいていた。
サイクロンを委ねるべき男。立花は今シーズンのクォリファイを鈴鹿ではなく、本郷猛という若者に決めるのであった。
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
※ あくまでFIRSTの世界観(宮内洋さんがニミッツのツナギを着ていただけのことです)をもとに創作したもので、
「仮面ライダー」というドラマのフォーマットとは無関係です。
なお、このプロットはtakezooさんの構想を
ベースに書きとめました。 |
|