《果てない地平へ コースは続く》

 1977年、カトリモータースは「カトリスーパーロマン」を発表した。当時、ヨーロッパを中心に各国の自動車メーカー、或いは工房が世に送り出したハイパワースポーツカーと互角に競うことのできる、国産スーパーカーをめざしたモデルで、75年、77年、後に85年のワールドチャンピオンに輝いたF−1ドライバー、ニック・ラムダ氏をスーパーバイザーに招いて開発が進められたという。
 ニック・ラムダ氏といえば、76年の西ドイツGP決勝においてクラッシュし、全身に火傷の重傷を負ったものの、わずか3ヶ月後に復帰し、最終戦までチャンピオン争いを演じた歴史に残るドライバーだ。※
 そのラムダ氏が、カトリモータースと繋がりを持っていたことは、彼と契約していた有名F−1チームとの問題もあり、極秘にされていたが、78年シーズンにはF−1参戦2年目のカトリチームに移籍するほどの蜜月を育んでいた。

 カトリスーパーロマンは、ウエッジスタイルのFRPボディに、ミドシップレイアウトの2926ccV型8気筒エンジンを搭載。テールエンドに巨大な強制排気ファンが2基装備されている。これはボディ下部に流れ込む空気を強制排気させ、ボディ上面との流速差によるダウンフォース効果をねらったものだ。
 モータースポーツにおけるスーパーロマンは、77年の日本アルペンラリーでのデビュー時には4輪であったが、カトリチームの新鋭ドライバー・轟鷹也氏のアイデアが投入され、モンテカルロラリーから6輪タイプに換装されている。リア側を片側並列2輪としたもので、ハイパワーに対する駆動輪の耐久性や強固なグリップを得ようとしたものと思われる。
 しかしスーパーロマンのV8エンジンのスペックを見ると、馬力では250ps/6000rpmと、現代では驚くほどの数字ではない。おそらく、当時のタイヤそのものに材質レベルでの限界があったのだろうが、それにしてもリア側4輪という仕様変更がたやすくできたということは、リアアクスル周辺に相当な自由度があったのだろう。

 主なレース参戦ドライバーは轟鷹也選手だったが、彼とスーパーロマンが組んだ戦歴はさほど多いものではなく、77年シーズン中、レース参戦は4回のみ。轟選手が同じチームからF−1にも参戦していたスケジュール上での都合かとも言われている。
 日本アルペンラリー、モンテカルロラリーはともにリタイア。その後車自動車(車大作代表取締役)製作のターボチャージャーを追加したバージョン3でル・マン24時間耐久レースに優勝。ラリー仕様に再換装したターボモデルでは、サファリラリーに出走し、優勝している。



※ニック・ラムダ氏とは、誰あろうあのニキ・ラウダ氏のことである。が、今回ばかりはつくばーど解釈ではなく、「アローエンブレム・グランプリの鷹」において、他のF−1ドライバーが実名で登場する中、何故か彼だけ仮名扱いであった。
 きっとそのことこそが、カトリモータースと極秘に接触するための、フェラーリチームに対する方便だったのかもしれない。