つくばーど採用歴代エスクード史 その1


 空色のクルマ 89年型TA01W/ヘリー・ハンセン


89年初夏 納車直後、手つかずの01W

 童話作家のあまんきみこさんが「車の色は空の色」というお話を書かれたのは、1960年代のことだったと記憶しています。
 空色のタクシーを運転する人のいいドライバー、松井さんのもとに、いろいろなお客が現れる、不思議なお話でした。
 子供ごころに面白くて、怖くて、少しもの哀しくて、そしてクルマという夢のアイテムに憧れた原体験でもあります。
 シンガーソングライターの谷山浩子さんが、このお話をフィーチャリングしたアルバムを出しているのを知ったのは、10代の後半でした。原体験からずっと、言葉と挿し絵によって構築されていた『空色のクルマ』に、今度はこれまた不思議な旋律が加わることになった、再会でした。
 そして20代の半ばに、僕自身が『空色のクルマ』と出逢いました。松井さんのタクシーは、きっと、水色をしていたと思われますが、僕の出逢ったクルマは、本当に空のような色をしていたのです。
 ただそれは、SUZUKIエスクードと出逢う前のこと。

 空色のクルマは、550ccの3気筒エンジンをターボとインタークーラーで、きかん坊に仕立てたジムニーJA71でした
 SJ30からの乗り換えは、これジムニーなの? と口にしてしまうほどのピーキーなクルマになっていました。
 1988年にエスクードが登場したとき、このクルマはそれほどインパクトを感じさせるものではありませんでした。NAのエンジンには低速トルクと粘りがあるなあと感心したものの、バイクのような感覚で乗り回すことになれていたジムニーの方が楽しかったことと、ローレンジを使うステージといってもバリバリのクロスカントリーではなかったため、ジムニーで充分、ジムニーはそれ以上の走破性だと確信していました。


 今、初代の1型ATにお乗りの方には失礼を承知で書くのですが、GM供給の3速ATは、ディーラーが用意した試乗車としては選択ミスでした。そこにも都市型四駆のイメージを表したかったのでしょうが、素性の良さそうなエンジンと、なんだかややこしい足回り構成という面白さ以前に、走らせて楽しくなかった。なにより目の前のガンメタルボディのエスクードは、野暮ったくしか見えなかったのです。



カスタム化の進んだ01W。らすかるの原型
 と、正直に書きました。
 そうです。デビューしたてのときには、僕はジムニー主義だったのです。まさかそのエスクードが、1年後に空色のボディを纏って現れるとは思いもしませんでした。
 89年型のヘリー・ハンセン仕様は、色が変わるだけでこれほど印象が変わるのかという驚きの一台で、400台の限定。買えるモノなら買ってみろと、挑まれたような再会。そして手に入れたMT5速のこれは、いっぺんで一年間の言動に陳謝しつつ、宗旨替えをさせられることとなったのです。
 この年スズキは、エスクードのために実に沢山のオプショナルパーツをリリースし始めます。
 ヘリー・ハンセンには標準装備だった積載量50kgのキャリア(これがエスクードの“カタチ”を変えた)、それと対を成すグリルガード、可変式のダンパーとレートを上げたコイルなど。アフターマーケットに頼らず、いろいろなことが試せて、思い通りの仕様に仕上げることが可能でした。
 この動きにならって、アフターマーケットにおいてもさまざまなドレスアップ、スープアップパーツがリリースされていきます。ただ、多くのパーツがそれまでの四駆からのコンセプトを引き継いでいるため、果たしてエスクードのカタチにマッチしていたのかどうかは、好みの別れるところです。
 それにしてもバブルな時代? この1台、ノーマルでの乗り出し価格が、04年現在のグランドエスクード並みでした。

 89年型ヘリー・ハンセンは、いわゆる1型をベースとしています。G16Aというエンジンは、登場当初はネットで82馬力を示していました。ロングストロークな8バルブ仕様のOHCという極めて平凡なエンジンですが、1tを僅かながらも下回る車体の軽さが功を奏して、スポー ツであるかどうかはともかく、ライトウエ イトなフィーリングは演出されていました。

 
G16Aは、2代目の中期まで、10年にわたってリファインを繰り返しながら、107馬力へと成長しました。
 足回りのことは、幻の2台目のところで少しだけ触れます。