つくばーど基地から鴨川までの道のりは省くが、内房と南房総を廻るとそれで時間を使いきり、鴨川以北は帰路として通過するか中座しがちだった。歳をとったことの実感だ。二十代と三十代は、銚子まで沿岸を走っていたから。
 外房にも見聞すべき場所は沢山ある。が、それらをすべて外して、さらには林道さえも眼をつむり、いかにもつくばーどっぽい漂流に出る。


 鴨川市は特に、飯を食うポイントを知らなかった。「おらが丼」というご当地献立の存在も知らなかった。今回の仕事で早朝に訪ねた仕事先で「国道沿いのトンネル一個目過ぎたところにある『わか菜』に行くといい」と言われ、行ってみたら看板は『すなば』。カーナビでも『すなば』。ところが『わか菜』で検索すると確かに同じ場所だった。
 「すなばは本社で、ここは支店なんです」
 女将が笑いながら言う。いやわかんねーよ地元民じゃないからと、こちらも苦笑い。しかし運ばれてきたおらが丼こと「漁り火丼」は、タイやヒラメが舞い踊るばかりかマグロも二種類ナメロウもたっぷりアン肝まで隠れている11品盛りにミニ蕎麦と蟹汁。
 「いくつ盛り付けていくかなんて考えてません。地元産の海鮮をたくさん食べてもらいたいの」
 おらが丼やっている加盟店はみんなこうなのか!
 よそより早く開店するというのは仕事先で聞いたことだったから、朝飯を抜いていたのは正解だった。

 

 わか菜を出た後、国道の旧道に入って天津の街を走り始めたら、風変わりな外壁の一軒家を見かけ、「食堂車」と書かれている看板につられて立ち寄る。だけどすでにおらが丼で満腹感たっぷり。それは危険だと思いながら店内に入ると、車掌の制服姿の店主がにこにこしながら席をすすめてくれる。
 「北斗星」という名の、とりあえず食堂車ではなく喫茶店。外食産業で調理師をやってきた店主が自宅を改装して独立し、10年になるという。しかし外壁ってクリーム4号と赤2号。店名とは切り離している?
 「以前は583系の外壁だったんですが、青は色彩の影響で沈んでしまうので。外房線を走ったわかしおカラーに塗り直ししました」
 なにげに座った座席は0系のグリーン車用シート。店内はみなまで言うなというほどの鉄道車両を実用で使っている。
 「コレクターの方は所有しているだけで充分なのでしょうけど、スイッチはスイッチとして壁で使って、扇風機は天井で回さないとね」
 インターネットによれば、既に全国区の有名店だそうで、僕はその頃東北にいたので知らなかった店だ。満腹感に満たされていたが、名物と口コミされている「たこ焼き」を注文する。
 作りたてのほかほかのたこ焼き。これはうまい。
 「外房線の存続も危ういんですよ。SLでも走らせないと。でも軌道の問題で大きな機関車を持ってこられないし、JR東日本は小型車両を使わない。三陸鉄道のような第三セクターは期待薄です」
 そのサンテツで使われていたシートの座面が、テーブル席のひとつに見受けられた。


 言わずもがな食いすぎ。ちょっと腹ごなしをせねばならんと勝浦灯台と御宿に立ち寄り、散歩をする。ソメイヨシノのつぼみが大きくなっている。勝浦と言えば雛祭りの飾りが見ものなのだが、2月下旬からの始まりのため、これは見物できず。御宿では浜辺を歩いたあと、昼寝。
 ここから大原まで行くと、以前通っていた伊勢海老料理の店があるのだが、とても胃袋に入りそうもないので通過していたら、「ウルトラマンダイナ」の防衛チームのような名前のスーパーマーケットを見かけた。本社は市原市にあるようで、しかし大原にこんなお店、あったかなあ。

 

 かつての岬町、いすみ市の大東崎から見下ろす水田地帯の一角に、カフェ923は所在する。
 学生時代に魅了された商業写真家、國房魁(くにふさ・はじめ)氏の晩年の自宅を改装したお店だ。國房氏が亡くなられた年、東日本大震災があった。つまり僕は東北赴任直後で、この店の存在をあとで知ったが、訪ねる機会をなかなか持てなかった。
 國房氏の写真と言えば、「歌いたくなる写真集」が有名だが、日産や国鉄、JR、クラリオンなどのポスター広告で手腕を振るった人だ。ミノルタカメラのCМで、女子大生がシャツとジーンズを脱ぎビキニになるあれ。と言えばわかる人多いだろう。
 カフェは氏のお嬢さんが一人で切り盛りしている。ピザづくりの様子をカウンター席で拝見しながら胃袋と相談し、今回ピザは食えねーと、カフェラテと季節のタルトをいただきながら、かつてのポスター写真がおさめられたアルバムをめくる。
 その時代、少女であった往年の女優たちの初々しいこと。
 「このクルマ、親父がこの女優がかわいいぞと買ってしまったやつです」
 などとお嬢さんと対話していたら、テーブル席で談笑していたお客を送り出してひとり残ったご婦人が笑顔で声をかけてくれた。
 國房氏の奥方であった。
 外房漂流は、ここに来たくて目論んだものだった。奥方は普段は別の住まいにいらして、コロナ禍のあおりを受けて、感染予防のためお店には出てこなくなっていたというので、貴重なめぐりあわせをいただくことができた。
 大東崎から北は、僕の感覚では外房というより東総。この漂流はここまで。その大東崎に登る途中、一本だけある河津桜が満開を過ぎていた。