つくばーど採用歴代エスクード史 その5の四


 東日本大震災を乗り越えて



2011年、東北に拠点を移す



 まさか自分が東北在住者となり、あの東日本大震災に見舞われるとは思いもしませんでした。発災の瞬間、仙台市内で、BLUEらすかるを仙台空港へ向けて移動開始したところでした。ちょっとしたタイミングのずれなのですが、この日、予定通りなら午後3時には空港近くにいるはずだった。30分の遅れ。それでも3時30分には到着できると、先方に電話を入れたのが、2時40分でした。
 6分後、携帯電話が不快な緊急エリアメールとアラームを着信させ、そのときは、あ、地震だよ、というくらいにしか思わなかった。ところが直後にやって来た地鳴りはただならない響きで、すぐに大きな揺れがBLUEらすかるを襲ってきました。
 シートに背中を押しつけ、ステアリングを握りしめても、車は縦に横に揺さぶられ、じわじわと歩道寄りに跳ねていくのです。がれ場を走ってもあれほどの振動は出ない。心臓の鼓動が、痛みを伴って声を出せなくなる状況が、最初の1分間。しかし揺れは続けざまに発生し、もう車を放棄して避難するのが定石だろうと覚悟を決めました。
 しかし幸いにも、前方で停止していたタクシードライバーは「揺れがおさまったら一気にここを抜けてしまおう」と前後のクルマに提案してくれて、なんとか住まいの駐車場まで戻ることができました。
 BLUEらすかるを置いて事務所まで徒歩で引き返す途中、何度かの余震があり、その頃には幹線道路も路地裏も渋滞車両であふれている光景。
 定石は破ったものの、いいときにクルマを戻せたと思いましたが、住まいも事務所もライフラインのブラックアウトで何もわからずじまい。部下の安否確認と帰宅指示ののち、午後一番にも出かけていた国土交通省の地方整備局を再び訪ねたところ、庁舎に亀裂が入って危険だからと一般人は入れてくれない・・・ので、裏技を使って中に潜り込み、災害対策本部のいくつか生きているモニターで、被害が想像以上の広域にわたっていることを教えてもらいました。
 ライブカメラが映像を送って来ないモニター、それこそが太平洋沿岸の津波被害によるものだと、庁内は騒然としており、仙台空港も水没と聞かされ、初めて恐怖心が足元から湧き上って来るのを感じました。いつの間にか日没を過ぎていた仙台は、雪が降り始めていました。



2012年3月 再び月軌道へ

 あの日、午後に訪問する予定だった地元企業の人々とは、無事であると後日連絡を取り合うことができましたが、戦争が起きたわけでもない、爆弾が投下されたわけでもないのに、沿岸のどこへ赴いても、この世の光景というにはあまりにも凄惨な修羅場ばかり。
 どれだけ手を合わせようとも、目を伏せようとも、根こそぎ薙ぎ払われた泥と瓦礫の山と化した街並みは幻ではなく、目の前に広がり続けていました。復旧作業やボランティアとは異なる業務でしたが、そんな場所へ事務所との往復を続ける日々。燃料の残り具合や、マッドテレーンやオールテレーンほどには強度のないスタッドレスで大丈夫か?と思いながらも、3月と4月は書き尽くせず書き残しようのないルーチンワークが続いていました。
 けれども、もしあの日予定通りだったら、BLUEらすかるもろとも5m以上の津波にのまれて、この場所にすらいなかった。人の生き死にとは何なのだろうと、考えずにはいられない冬の終わりを過ごしていました。
 不景気、リーマンショック、震災と、車で道楽をするにはハードルの高い世の中となり、ましてや首都圏から数百キロという地の利において、つくばーどの企画や活動も、なんとなく失速していました。原子力災害という追い打ちも加わることになろうとは・・・
 そんな停滞の中でも、沢山の仲間から元気を分けてもらうことができたのは、主宰者冥利に尽きることです。
 10年ほど前には「そんなことができるのだろうか」と自問していた月までの道のりを、もう何人かのエスクード乗りがリーチをかけ、達成するようになっていました。先代らすかるがこれをやり遂げてから、7年ちょっと。2度目の挑戦に乗り出すとき、BLUEらすかるは8万キロ台の距離を刻んでいましたが、「もう一度できるのだろうか」と、やはり自問したのです。
 「その道なら、未踏ではない」
 先代をロストしたとき、儂さんが送ってくれた言葉が、常に胸の内にありました。奮い立つこと。淡々と走ること。未曾有の災害を乗り越えることができた自分には、まだ立ち止まって逡巡するには、まだ早いのかもしれません。
 そして走り続けています。2012年3月20日、2度目の月到達を、またひとつの通過点として。