壊しちゃったけど、そこそこ走る

 

尾上 (O)  二階堂(N)

 

 1988年 誕生の頃

N スズキエスクードが誕生して25年にもなります。エスクードがデビューした昭和63年5月当時、私は出向でインドネシアスズキに派遣されていた頃でした。日本ジムニークラブ(JCJ)でも発表会が行われたと聞いています。

O JCJ総会のときですから、6月でしたね。新車が2台ほど提供されて、発表と試乗会を兼ねて、天竜川の河川敷でオフロード走行をやったんです。ジムニーのつもりでガンガン行ったら、ナンバープレートだとかパネルだとかを壊しちゃったんですが、そこそこ走る。そこで、うち(APIO)はジムニーの専門店だけれどエスクードも扱ってみようかと、販売対応を始めました。最初は月販300〜400台程度の登録で、売れる、というほどではなかった。

N もう少し売れていたんじゃないかなあ。でも出足はそのくらいで、あとからロングボディのノマドを追加して、そこから売れ行きが伸びていった。

O もともとジムニーの兄貴分、という開発をやったんだよね?

N 昭和59年頃だったと思いますが、次期ジムニー開発企画会議が立ち上がり、そこに呼ばれたんです。私自身がスズキに入社して間もない頃であったにもかかわらず、闊達に意見を言える現場でした。そこで私が述べた意見は、今、人気のあるジムニーをいたずらにモデルチェンジするのではなく、ジムニーユーザーが「これから乗ってみたいと思う小型車」として新規開発を行うべき、ということでした。面白いことに、この会議は第2回目から、新型小型4WD開発会議、と名称が変わっていました。

O 車体のディメンションやサスペンション形式など、その会議で決まっていったんだね。

N 寸法、足回り、エンジンの排気量と総重量など、すべて私が提案しました。ジムニーを拡大してオンロードも快適に走らせるとなれば、自然とTA01Wのスタイルになる。デザインは担当リーダーの仕事で、当時はエンジン、ボディ、デザインなど分担された項目をそれぞれ1人の責任者が一貫して任されていた。だからクルマがまとまっていくのも早かったと思います。

O 最初はぱっと売れて、そのあと落ち込んだんですが、ノマドが出て選択肢が広がったということですね。デビューからノマド追加のタイムラグというのは、どんな経緯があったんですか?

N G16A、1600ccのエンジンを改良する時間ですね。最初は4気筒8バルブでシングルポイントの点火方式でしたが、これを16バルブ化してマルチポイントに改良し、ノマドの車体でも過不足無く使える状態にパワーアップさせたんです。当然ハイギアード化も進んでいますが、高回転域が活かされるようになっています。

 オーストラリアン・サファリへ

O エスクードを初めてラリーに持ち込んだのは、平成元年のオーストラリアン・サファリでした。ということは、あのクルマはデビュー直後の初期型、改良前のモデルだったんだよね。

N まだ1型のままですね。ラリーは、最初はバハ1000を考えていたんでしたっけ?

O 構想はバハをジムニーで走ることでしたが、USAスズキでサムライを借り受けて、実際にバハのコースを走ってみたら、もう足回りのストロークが足りなくて、クルマがばらばらになっちゃうぞと。それならエスクードかなとも思ったんだけれど、バハ1000というのはタイムトライアルでしょう? クロカンのジムニーやエスクードで走っても楽しくないのですよ。

N その頃ちょうど、オーストラリアの建国200年祭というのがあって、私はインドネシアにいて不参加でしたが、JCJで10日くらい、現地のスズキクラブに招かれて出かけたのが、オーストラリアのラリーのきっかけになった。

O そのときラリーレイド形式でやっているオーストラリアン・サファリの存在を知り、現地の仲間がジムニー1300のロングボディで参加していると聞き及び、それなら我々も来年から出ようよとということになって、エスクードを持ち込んだのです。

N 現地のナビが直前になって参加をとりやめしてしまったため、私がインドネシアから呼び出されてナビゲーターをやりました。車検落ちから始まりましたね。

O 補助燃料タンクの給油口が室内にあったことや、ロールバーの点数が不足していることなどではねられたんですが、現地のスズキクラブの仲間が修理工場を持っていて、一晩で直しちゃったね。

N 解体屋に行って合いそうな給油口のパーツを探し出し、分担でロールバーの補強をしましたね。あと2時間で終わられてくれとあわててました。修理工場の社長が「こんなに働いたのは初めてだぞ」と言っていた。

O あのチームワークは素晴らしかったですね。結果、初出場でクラス優勝できた。

 

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