篠塚さんを追い越したことがあった
 

N エスクードが出るまで1600ccクラスの車両はラダ・ニーヴァとダイハツのタフトやフェローザしかなかった。エスクードはあのとき3台出走していて、車種が増えたことで主催者がこのクラスを新設してくれたんです。そういえば、ソフトカーロープのエピソードがありましたね。

O ソフトカーロープというものが、オーストラリアには無かった。向こうのラリーを仕切っている有名人のドライバーがいて、彼の2.5tくらいの大型車がスタックしていたことがあった。誰も彼も引っ張り出せないだろうと素通りしていくのを、我々がソフトカーロープでつないで、「しゃくり方式」で助けたんです。これで注目された。クラス優勝は雑誌に取り上げられるきっかけにもなったね。

N 当時出版されていた4WDフリーク誌の綴じ込み付録カレンダーに、オーストラリアン・サファリのクラス優勝シーンが掲載されました。

O このあと売れ行きが変わって、月500台程度だったものが、1000台くらいに増えましたね。オーストラリアン・サファリには合計5回出場しましたが、フロントサスペンション、フロントデフがとにかく壊れた。デフケースがアルミニウム製なので、4000kmくらいで交換しないと持たない。車体もフロントフェンダーのインナーがバルクヘッドから断裂してしまう。フレームがなかったら走れなかったね。

N ストラットもアッパーから抜けてしまう。クルマを横倒しにして、つっかえ棒をかませて修理するんですよ。それはそれで難しいのだけれど、いかにもオージーらしいやりかたでした。ノマドでは何回走りました?

O ショートで2回、ノマドで3回でしたが、ノマドはホイルベースが長くなって走りやすかった。荷物も積めるし。三菱パジェロで出てきた篠塚建次郎氏や増岡浩氏とも争った。一度、篠塚さんを追い越したことがあったね。

N 砂漠では速いパジェロでしたが、山道ではエスクードの方が速かった。ひょっとすると、篠塚さんはクルマを壊さないようペースを落として走っていたのかもしれませんが。それでも悪路はエスクードにも利があった。

O 最後に出たときが、総合6位まで行けた。これで自信が付いて、オーストラリアからパリ・ダカールへ進出して、とんでもない目に遭うんです。

 

パリ・ダカールラリー

N パリ・ダカールラリーには、1600ccで乗り込んだのでしたか。

O 最初はテンロク4気筒でした。途中からV6にスイッチして、2代目エスクードでも出ました。だんだん訳の分からないクルマになっていったけれど。
 2代目は不人気といわれているけれど、あれの中身は初代とあまり変わっていないから、四駆として面白いクルマでしたよ。パリ・ダカールラリーでは2代目エスクードの戦績が最も多いですね。ただし、アフリカのラリーレイドは基本性能だけでは太刀打ちできないのです。

N あのラリーはハイスピードかつ砂漠に悪路と、オーストラリアン・サファリとは条件が異なる。

O たとえば、1日のスケジュールで、モーリタニア砂漠から750km走ってこいと指示されるわけです。ラリーはバイクも含め300台も走るから、順位の低い俺たちはスタートが昼近くになってしまうこともある。ひどい時はコースの半分くらい走ったところで夜になってしまう。ランクルなどで走ればまだマシでしょうけれど、さすがにエスクードだと3、4日消息が分からなくなっている、なんていうこともありましたね。

N 砂漠の走りはどうだったのですか?

O エスクードはフレームを延長して車高を上げ、熱だれ対策で特注のガス封入ショックや硬めのアップコイルを作ってもらったり、大径タイヤを履かせたりしたけれど、履けるタイヤの大きさにも限度がある。前をハイパワーのでかいクルマが走ると砂をえぐられ、轍も車幅が合わなくて、うっかりすると腹がつかえるんです。ただしエスクードは車体が軽いから、デューン越えは得意なんですよ。ナビゲーターのセルジュが泣いて喜んで、その日の最高で総合20位くらいまで上がったことがある。このときのタイヤはジオランダーATを使っていましたね。

       
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